ParaDo(パラドゥ)攻めてる!爪に萬葉集(その2)
コンビニコスメ、パラドゥの2022年秋ネイルは
日本の秋の草花がイメージされた色使いとなっています。
そしてテーマが「恋歌」。
取り上げられているのは、
萬葉集に収められている日置長枝娘子(へきのながえのをとめ)の歌です。
今回は、この歌について書いてみようと思います。
収録について
この日置長枝娘子の歌は、
萬葉集の第八巻の秋の雑歌(ぞうか)に収められています。
第八巻には、四季の雑歌と相聞歌(そうもんか)が収録されています。
雑歌とは簡単にいうと、「種々雑多な内容の歌」のことです。
萬葉集では相聞歌・挽歌と並ぶ三大部立(さんだいぶだて)の一つとされます。
いろんな場面で詠まれているので、感情などもさまざまなのでしょう、ジャンル分けが難しいので、「雑歌」となっているようです。
そして相聞歌は、「(主に)恋人同士の間で詠みかわされた歌」のことです。ペアになっている歌のことですね。
親子・兄弟・友人などの間で詠みあった歌も相聞歌といわれるのですが、恋人同士の間で詠み交わされた歌の数が圧倒的に多いので、恋の歌と思っていてよさそうです。
そして、注目すべきは、日置長枝娘子の歌は、
「相聞歌」ではなく「雑歌」に収められているということです。
パラドゥの2022年秋ネイルのテーマは、「恋歌」だったのですから、「相聞歌」に入っていそうなものですが、
「雑歌」に収録されているんですよね。
このあたりは、私なりに推理してみましたので、
後ほどお伝えしようと思います。
作者 日置長枝娘子について
作者は、日置長枝娘子(へきのながえのをとめ)です。
彼女については、伝未詳となっており、詳しい情報がありません。
また、萬葉集に収められている彼女の歌は、この一首のみとなっています。
ちなみに、「日置」は「ひおき」と読みそうなものですが、
これは、「ひおき」の「ひお」が「へ」となる音韻変化があり、
「へき」と読むようになったのだそうです。
「日置」は地名なのではないか。と思い、調べてみると、
日本には、読みは違えど「日置」という地名がたくさんあるようです。
(彼女の出身地がわかるのではないかと考えたのですが、
北陸・関西・中国・九州にあって、無理でした。
でも、大阪あたりかなという印象です)
歌を読む
それでは、いよいよ歌について「読んで」みましょう。
和歌や俳句などは句と句の間をスペースで分かたず、
一行で書いてあるものなのですが、
今回は、句ごとに文法的な解説を加えたいので、
あえて分かち書きをしています。
歌は、「秋づけば 尾花が上に 置く露の 消ぬべくも吾は 思ほゆるかも」
音読するなら
「あきづけば おばながうえに おくつゆの けぬべくもあは おもおゆるかも」となります。
初句
「秋づけば」はカ行四段活用動詞「秋づく」の已然形です。
それに単純な接続を表す助詞の「ば」がついています。
「已然形+ば」は「〜すると」という意味になります。
よってこの初句は、「秋らしくなると」という意味になります。
二句
尾花はススキのこと。
「が」は連体修飾語を表す助詞であり、「上」という体言が連なっていますね。
この「が」の意味は「〜の」です。
ですから、二句は、「尾花(ススキ)の上に」という意味になります。
三句
「置く」はカ行四段活用動詞の連体形。
「置く」の活用形が連体形と断定できるのは、
露という体言が連なっているからです。
「の」は、連用修飾語を表す助詞です。
比喩(たとえ)の意味を表し、「〜のように」と訳せばよいでしょう。
ですから、三句は、「置く露のように」という意味になります。
四句
「消」は「け」と読みます。
現代では「きえる」と読みますが、古語では、「きいぇる」と読みます。
これをローマ字表記に直し、「kiyeru」の中にある「er」を省けば
古語の動詞「消ゆ(きゆ)」ができます。
これは下二段活用動詞です。
この動詞の活用形は、下に強意(完了がメジャーですが)の助動詞「ぬ」が連なっているところから、
連用形と判断できます。
そして、この「ぬ」の活用形が終止形であることは、
その下にある「べく(べし)」からわかります。
「べし」は終止形接続の助動詞だからです。
「べく」は推量の助動詞「べし」が活用されている形になります。
そしてその活用形は、上の「消」や「ぬ」のように下に連なっているものから判断できればよいのですが、
下にあるのが助詞の「も」なので、ちょっとそれは難しそうです。
これは、形容詞のク活用と同じです。活用形はあっさりと連用形とだけ書いておきます。
そして、「吾」は「あ・あれ」と読み、「わたし」の意味です。
この「吾」に格助詞の「は」がつくことで、娘子の強い思いが表れています。
「ほかの人がどうするかは知らない。でも、私は〜する」のように
他とは明らかに違うことを示しています。
ですから、四句の意味は、
「きっと消えてしまうと私は」という意味になります。
我が身が消え入ってしまいそうな思いって、なかなか激しいですよね。
かといって、その思いをとどめるすべも知らない。
なんなら、消え入っちゃったってかまわない。ぐらいの思いがあるように思われます。
いにしえの日本女性たちは、自分の気持ちに正直で
積極的なんですよね。
五句
「思ほゆる」はヤ行下二段活用の動詞「思ほゆ」の連体形です。
自発の意を表し、「(自然に)思われる」とか「(ひとりでに)思われてくる」と訳せばよいでしょう。
「かも」は、詠嘆や感動を表す助詞です。
「〜であることよ」と訳します。
というわけで、五句は、「(自然と)思われることです」
歌の意訳
それでは、歌の意訳をしてみます。
秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも吾は思ほゆるかも
秋らしくなってくると尾花(ススキ)の上に置く露のように私は(我が身も)きっと消えてしまうだろうと思われることです
昼夜の気温の変化で水蒸気が露という液体になるわけですが、
これは日中気温が上がってくれば、再び水蒸気となり、露は消えてしまいます。
このほんの数時間現れ、消えてしまう露に我が身をなぞらえているんですね。
はかない、実らない、報われない思いなんて抱いていても苦しいだけ。
だから手放してしまいたいけれど、かといって、そんな簡単に消せるような思いでもない。
我が身が消えてしまいそうに思えてくる。という表向きの訳だと、
弱々しい女性像が浮かんできますが、
私には、日置長枝娘子がそんなヤワなタマには思えないのです。(笑)
「消ぬべく 思ほゆ」は相聞歌のド定番フレーズのようなんですが、
ペアの歌を伴わず、ドーンと雑歌に収録されるあたり、
娘子は、情熱的な女性だったのではないかと思われてくるのです。
ですから私は、
たとえこの身が消えてしまうとしてもかまわない。私は我知らずあなたを思っていることですよ。
なんて意味なのではないかと、突っ込んで解釈してしまうのでした。
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