次世代の幸せを願うなら。【高校非常勤講師奮闘記】
教諭は人的資源です。
学校の先生の正式名称は 「教諭」です。
望ましい方向へ導き、逸れぬよう、ときには鞭でペチペチ軌道修正し、諭すのが仕事です。
これは、誰にでもできることではなく、
やり方や、教わる側の相性によっては、嫌われたり、身に危険がおよぶおそれもあります。
それでもなお、目の前の子供たちの将来や、国の弥栄を考えれば、
我が身をなげうっても惜しくはない。というのが、どの教諭も本来持ち合わせている矜持といえるでしょう。
しかし、それを聖職ではないとか、サービス業の一環ととらえたことで、
現在の危機的状況を招いているのも事実です。
(もちろん、一部の教諭の違法行為によって、こういう誤解を招いたこともいなめません)
そして、非人間的な表現だ!なんて言われそうですが、
人は、有限な資源(リソース)なのです。
我が子、ひいては自分のために 今、都合よく教諭をあしらえば、
子孫や、自分が年老いたときの社会に悪影響を及ぼし、
我が身へのしっぺ返しがやってくるのです。
現代の学校の先生は、「ビジネス聖職者」に位置づけられ、
がんじがらめにされています。
教諭に対し、惻隠の心を持ち、
衆生の苦難を見ていられず、自身の修行を中断してでも衆生を救おうとする菩薩の姿を求めるなら、
裁判官のように身分も収入も保障するべきです。
教諭をあこがれの職業にしなければ、国の未来はありません。
尊敬を集め、収入もよい。将来の人的資源を育むという使命感もやりがいもある。
教諭の身分や収入などを保障することは、
単に一個人を優遇しているのではなく、次世代を育む資源を守ることです。
すべての人が、教諭という職業の認識をいま一度あらためることで
回り回って、国が発展し、国民が潤うことにつながるのではないかと思います。
かわいい子なら「虚構」に投げ込め!
教諭に対し、
「本当は、そんな尊敬される要素なんてないのに、見せかけで尊敬なんて意味がない!」なんていう人もいるでしょうが、
「先生は、尊敬するべき存在」という虚構の中に我が子を投入し、
社会化の経験を積ませましょう。
このような虚構で生き抜く術を持たないまま、社会に出たら、あっという間にくじけてしまいます。
20代やそこらでくじける子供と、
長くしぶとく、なんだかんだで楽しそうに生きていく子供、
どちらになってほしいと思いますか?
「虚構」にハマって知恵を出す
教諭は天然記念物だ!絶滅危惧種だ!という虚構にあえてはまってみれば、
学校現場の危機は、免れる方向へむくかもしれません。
教え導くことは、教諭にとって唯一無二の仕事であり、
それに専念させるため、教諭以外でもできることは、これも、きちんと報酬を出してアウトソーシング・分掌化するよう知恵を出し合えばいいのです。
クラブの顧問や試合会場への引率などは、経験者やOB・OG、専門の指導者などに任せればよいですし、
保護者対応についても、第一段階では、コールセンター経験者や、警察OB などが行う。
(彼らがヒアリングし、必要ならばファシリテーターとして保護者と教諭の間を取り持つ)
事務作業は、AI化するなど。
教員養成課程では、クラブの顧問になることや引率、事務作業も保護者対応も習いません。
ほかの職業だって、そんなの習ってないと思いますが、
ステークホルダーの年齢層が広いので、対応に四苦八苦するうち、本来の仕事に打ち込めなくなってしまうのです。
子供の幸せを願うなら。
エネルギー資源や鉱物資源に乏しい日本が、今日まで国際競争力を維持できたのは、
人という資源が生み出す、高い技術力があったからでした。
高い技術力は、お行儀がよくて、勤勉な国民性と教育によって支えられてきました。
しかし、かつては1番2番を争っていた高い学力も後退し、
人口が多い(それだけ国内での競争が激しい)国に追い抜かれ、差をつけられつつあります。
何者にも支配されず、自由で、互いを尊重して生きていきたいなら、
また、子どもたちにもそういう社会を継承させたいなら、
自ら考え、行動する次世代を育む必要があります。
学校現場の改善を行い、教諭という人的資源を守ることは、
次世代の国際競争力を高めるため、時をおかずに取り組むべき課題だと思います。
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