筆写の効果、ハンパない?【リスペクト!山鹿素行】
2021年の初め、突然 山鹿素行(やまがそこう)の著作を読んでみようと思い立ちました。
しかし、読むにはちょっとしたハードルが。
なにで筆写する?
現代版書き下し文を作ろうと考えたとき、
パソコンでテキスト化するか、筆写するか、少し悩みました。
読みたいと思ったとき読めるのは、デジタルデータの方ですからね。
しかしそうなると、筆写の際、机に広げる道具が増えてしまいます。
特に「書く」道具がペンとパソコンになるので、持ち替えるのが厄介だな。と。
そんなわけで、まずは筆写して、紙データとしての現代版書き下し文を完成させ、
その後、それをもとにデジタルデータ化することにしました。
道具をあれこれ広げたくない。という理由もありましたが、
筆写をしようと思った一番の理由は、筆者とのシンクロ感やその心地よさを得たかったからです。
時空を超えてリアルタイムにシンクロする
この心地よい体験は、高校・大学時代にさかのぼります。
授業のために本文を筆写するのですが、単なる筆写に終わらないのです。
実は筆写すると同時に、頭の中で音読もしているので、古典独特のリズムのおもしろさにガツンとやられます。
さらに、シンプルな言い回しなのに、深く広い世界を表現する言葉の強さに徐々に魅了されていきます。
こうして、どっぷり古典に浸かっていくのです。(笑)
人間は変わらない生き物
人間の歴史は脈々と続いているのに、それぞれの人生は百年足らずです。
生まれてさまざまな体験・経験をするも、それ自体が別の誰かにそっくり受け継がれることはありません。
知識や知恵は引き継がれますが、人間そのものは、毎度毎度弱く拙い状態で生まれ、同じようなことで悩んだり苦しんだりするのです。
たとえその人の人生で解決されようと、新しく生まれ出でた命には何も引き継がれず、同じことを繰り返していくのです。
古典を読んでいると、何年経とうと人間って変わらないんだな。と思います。
だからこそ、
清少納言が「自分に向かってのアピールかと思ったら、自分の後ろにいる人へのアピールで、それに反応しちゃった私、恥ずかしいわよね。」なんてのに共感するし、
世捨て人の兼好法師が、「女ってのは・・・」と書き、その指摘が現代でも変わらぬ女性の生態だったりして、
「なんなん、このオッサン。ちょっと当たっていてムカつく!」などと怒ったりするのです。
筆写の効果
あたりまえですが、現代に生きる私が、江戸時代初期に生きた山鹿素行に会うことはできません。
しかし、彼とシンクロすることは可能です。
彼は、自身の思想を文字としてアウトプットしました。
つまり、著作を筆写すれば、まさに素行がアウトプットしている瞬間とリアルタイムにシンクロできるのです。
そして、自分の書いた文字と活字では、内容の理解度も違うように思います。
筆写は時間のかかる作業です。
筆写の間、著作に触れることになるので、通読するのに比べて理解度が増すのでしょう。
また、単に読むだけなら、目や耳という感覚器を用いるだけですが、
書くとなれば、目や耳という感覚器だけでなく、手も使います。
学びたいことを確実に自分のものにするには、インプットよりもアウトプットが重要です。
筆写することで、筆者がアウトプットする瞬間を追体験し、自分のものにしていけるのでしょうね。
思想は有機的なものなので、その含みは無機質な活字ではまかないきれないのでしょう。
素行の思想なのですが、自分の字で書かれているため、どこか自分の思想のように感じられるのかもしれませんね。
書き下し文でさえも旧字のオンパレードで読めない。というところから始まった筆写ですが、
いざやってみると、やはり得るものが多い有意義な作業でした。
次回は、筆写に用いた道具について、御紹介してみようと思います。
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