万葉集について【元号「令和」の典拠について】
前回の記事で、元号にはそれぞれ典拠があり、
書物の中から、象徴的な漢字2文字が組み合わさって成立していることを確認しました。
今回はいよいよ、「令和」が何を典拠とし、
どこから漢字2文字が組み合わされたのかを調べてみます。
「令和」は「万葉集」より成った
元号「令和」は、
「万葉集」の巻第五「梅花の歌三十二首あはせて序」の序文中にある、
「時に、初春の令月にして、
気淑〈よ〉く風和〈やはら〉ぐ」より成立しました。
万葉集について
万葉集は、現存する日本最古の歌集であり、
4500首あまりの和歌が20巻に収められています。
実は日本最古かもしれないが、現存しない歌集があったかもしれないということになります。
古代日本は、なんともロマンにあふれていますね。
成立は、奈良時代末期とされており、
その名の由来は、
数多く(万)の和歌(葉)を集めたからとも、
万代に伝わるようにという願いが込められたからともいわれています。
ここがすごいよ、万葉集。
万葉集のすごいところは、
個人から端を発した私撰集であることです。
天皇の命を受けて作る勅撰和歌集〈ちょくせんわかしゅう〉であれば、
4500首集めても不思議はないと思うのですが、
複数の個人で、4500首も集めるというのは、
並大抵のことではないと思います。
また、私撰集であるからか、
作者層が幅広いのも特徴的です。
天皇、貴族だけでなく、
庶民の詠んだ和歌や、古代の伝承歌も収められています。
また、4500首も集められたということは、
奈良時代の日本では、すでに
「自分の感情を、率直かつおおらかな言葉で詠む」という
文化が根づいていたことも示しています。
現代の私たちは、
和歌は学校の国語で習うものであり、
歳時記をめくらなければ季語がわからないので、
率直かつ大らかにうたう素地を持ち合わせていませんが、
万葉集の頃の人々は、
歌と生活が共にある豊かな文化の中で生きていたのでしょう。
万葉集の構成
構成は、
恋を中心とした贈答歌「相聞〈そうもん〉」、
人の死を悼む「挽歌〈ばんか〉」、
相聞や挽歌に含まれない、行幸〈ぎょうこう〉や宴会を詠んだ「雑歌〈ぞうか〉」の3つが基本となっています。
また、構成や内容が一貫しておらず、巻ごとに大きな違いがあるため、
複数の編者によって何度も編集されて、今の形になっていったと考えられています。
最終編者は大伴家持?
万葉集は、構成や内容が巻ごとに違うことから、
複数人の編者がいたと推定されていますが、
最終段階では、
大伴家持〈おおとものやかもち〉が関与したとされる説は有力です。
ゆかりが深いなと思うのは、
「令和」の由来となった「梅花の歌三十二首あはせて序」の舞台となったのが、
家持の父、大伴旅人〈おおとものたびと〉の屋敷であったことです。
家持は、編集の最終段階にたずさわる中で、
ありし日の父の姿に思いをはせたのかもしれませんね。
こうして、万葉集についての知識を得ると、
長らく漢籍を典拠とする元号が用いられてきたのに、
いにしえの日本人のさまざまな言葉が収められた、
最古の和歌集が新時代の元号の典拠となるなんて素晴らしいことだと思えてきますね。
参考文献
【元号「令和」の典拠について】シリーズの記事執筆に際し、以下の書籍を参考にいたしました。
プレミアムカラー 国語便覧
数研出版株式会社 2018年 (ISBN978-4-410-33912-7)
倫理用語集
山川出版社 2007年 (ISBN978-4-634-05213-0)
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