詠み人を知る【友を悼む】
2022年9月27日、
同年7月8日に亡くなった安倍晋三(あべ しんぞう)元内閣総理大臣の国葬儀が執り行われました。
友人代表として、菅義偉(すが よしひで)前内閣総理大臣が追悼の辞を読み上げました。
その追悼の辞にあった山県有朋の歌を解釈してみます。
友を悼む歌
主を失った部屋に残されていた読みかけの本は、『山県有朋』でした。
ここからのくだりを聞いていて、偶然とはいえ、符合することの多さに少しおそろしくなりました。
安倍元総理は、なにか兆しを感じていたのかと思うほどです。
山県有朋は、山口県萩市出身の政治家であり、総理経験者でもあります。
マーカーが引かれていた歌は、
同じ山口県出身で、初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文の死を悼んで詠んだものです。
(伊藤博文は、1909年、今の中国、ハルビン市で狙撃されて亡くなっています)
伊藤博文は、山県有朋よりも3歳年下で、山県よりも先に総理を務めていることから、
菅前総理は、6歳年上の自分が、先代の総理を見送ることになってしまった不幸に際し、
百十余年前の山県の歌に痛いほど共感したのだろうと思います。
菅前総理が、
「総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。 」
と言ったのはどういうことなのか、掘り下げてみたくなりました。
今回こそは、絶対に時をおかずに書き上げようと思っています。
山県有朋と伊藤博文について
以下、歌を品詞分解して解釈していこうと思いますが、
そもそも、私は歴史に疎く、山県有朋に関する知識がなかったので、
ウィキペディアで調べてみました。
なぜ菅さんの心をぐっとつかむような歌が詠めたのか、
また、山県自身が、どういう状況でこの歌を詠んだのか、背景をさぐる必要がありました。
山県有朋
山県有朋は、天保9年(1838)、現在の山口県萩市に生まれます。
彼の家は、蔵元仲間組という一般の武士よりも身分が低い足軽の家でした。
5歳のとき、母が病没したのちは、厳格な祖母によって育てられます。
また、国学を学び、歌を詠む父から学問を教わりました。
当時の人が誰でも折りにふれ、心のままに歌を詠めたわけではなく、
山県だからこそ詠めたのだろうと思います。
その後、松下村塾門下生の推薦により、同塾への入塾を勧められますが、
山県は、「吾は文学の士ならず」と入塾を辞退しています。
しかし、その後、松下村塾のはからいで広い世界を見る機会を得て、
塾生の久坂玄瑞の紹介で松下村塾に入塾します。
しかし、彼の入塾からほどなく、吉田松陰が安政の大獄により刑死してしまいます。
松陰と過ごせた時間は、ほんのひとつきほどだったようですが、
山県は、生涯を通じて、「松陰先生門下生」と自ら称したのでした。
(しがらみを持たない一匹狼タイプの菅さんと似ていますね)
そして、第3代、第9代の内閣総理大臣を務めました。
明治42年(1909)71歳のとき、伊藤博文の訃報に接します。
大正11年(1922)84歳で亡くなります。
伊藤博文
伊藤博文は、天保12年(1841)、現在の山口県光市に生まれました。
もともとは百姓の家だったそうですが、後に武士になります。
武士の身分を得たものの、階級としては低かったようで、
松下村塾に入塾しても、塾の敷居をまたぐことは許されず、立って聴講したようです。
安政の大獄で吉田松陰が刑死したとき、
その遺体を引き取りに行く役目を負うたのですが、
彼は、自らの帯を遺体に巻いて、師を悼んだそうです。
初代、第5代、第7代、第10代の内閣総理大臣を務めました。
明治42年(1909)現在の中国 ハルビンで狙撃され、68歳で亡くなります。
西洋列強と肩を並べる近代日本を目指す、強く高い志を持っていたことなどから、
自然と結びつきが強くなっていったのでしょう。
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かなり長い記事になりましたので、5回に分けています。
ちょこちょこ読みにきていただければ幸いです。
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