紡がれた日常を奪わせない【友を悼む】
2022年9月27日、
同年7月8日に亡くなった安倍晋三(あべ しんぞう)元内閣総理大臣の国葬儀が執り行われました。
友人代表として、菅義偉(すが よしひで)前内閣総理大臣が追悼の辞を読み上げました。
その追悼の辞にあった山県有朋の歌を解釈してみます。
並行線の一本が途絶えた
主語と述語でも考えてみます。
主語は「人は」で、述語は「先立ちぬ」です。
「人は」は、「かたりあひて」と「尽くしし」という修飾語がついていて、
意訳すれば、「時を忘れて語り合った人」ぐらいになろうかと思います。
主部と述語で、過去の助動詞と完了の助動詞がそれぞれ一つずつ使われているのですが、
こんなにも悲しい一文字があったろうかと思います。
主部の「かたりあひて尽くしし人」までは、山県の頭に伊藤との懐かしく楽しい思い出が浮かんでいます。
並行線という言葉があるかどうかわかりませんが、二人は共に激動の時代を生きてきました。
命を糸にたとえるならば、二人の命の糸は、並んで続いていたのです。
しかし、述語の「先立ちぬ」の「ぬ」により、
山県は、自らの眼前に、これからも並んで続くと思われた糸の片方がぶつっと断ち切られてしまったという現実がつきつけられたことを表します。
もちろん、山県とて、命に限りがあることは承知していますから、いつまでも並んでいけるとは思っていなかったでしょう。
また、たった3歳差ですが、伊藤は山県よりも若いですから、
なんなら自分が先に見送られると思っていたのではないでしょうか。
いつかは途切れるだろうが、それはそんなすぐのことではない。
そう思っていたのに、その希望は突然断ち切られるのです。
何の心づもりもしないうちに悲劇にみまわれた山県の悲しみや寂しさははかりしれません。
たった一本残されて
並んで続くと思っていた片方の糸が突然断ち切られ、
山県は呆然とし、困惑しています。
「今より後の世をいかにせむ」(伊藤のいない今後の世をどうしていけばよいのだろうか)
「世」は、文字通り、日本国や国民のことを指しているのでしょうが、
私は、それは表向きの表現で、
実は、長年の友を失った自分自身のことを指しているのではないかと思います。
「国や国民の今後も心配だけど、なにしろオレだよ!
お前という心の支えを失って、これからオレはどうしていけばいいんだよ!」
山県は、プライベートな気持ちを歌に詠みこんだのだろうと推察します。
プライベートな気持ちですから、今後の日本や国民の心配よりも、
悲嘆・困惑・喪失感にめまぐるしくかきみだされる我が身に比重が置かれているのではないでしょうか。
百十余年後、同じ思いをする人が出てしまった
歌を解釈していくと、菅前総理が
「総理、いま、この歌くらい、私自身の思いをよく詠んだ一首はありません。 」と述べたのかわかる気がしますね。
年若いけれど、この人だと見込み、心の支えにしてきた人、
苦楽を共にし、今後も共に国のため、国民のために力を尽くそうと思っていた人、
数日後には、「暑かったね〜、ちょっと焼けたんじゃないの?」なんて軽口をたたきあえると思っていた人を
突如失ったのです。
その人に会えるのが当たり前だった日常が、なんの心づもりもないうちに奪われることはあってはならないことです。
現在、菅前総理は、国のため、国民のためと働いてきた人の遺志をつなぐため、
身近にいた自分こそが、前に進まねばならない、
悲しみにくれているばかりではいられない、と 頭では理解しているでしょうが、
心はさまざまな感情にめまぐるしく襲われて、途方に暮れているのかもしれません。
そんなとき、山県の歌を目にして、一世紀以上前にも同様の思いをした人がいたことに深い感慨をおぼえ、
時を越えて、悲しみを共にすることで、心癒やされているのではないかと思います。
とはいえ、山県や菅前総理のような思いをする人が再び出ることのない世の中になってほしいし、
私達はそんな世の中になるよう努力していかねばなりませんね。
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かなり長い記事になりましたので、5回に分けています。
ちょこちょこ読みにきていただければ幸いです。
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