自由と「型」なしは別モノです。【生き残れ!読書感想文は自己表現のサバイバルゲームだ!】
テンプレート、作ってました。
塾講師時代、原稿用紙に文字数と書いてほしい内容などを書き添えたテンプレートを作っていた時期があります。
これまでにも何度か書いてきましたが、
テンプレートを作ったのには、苦い経験があるからです。
小学生の国語を担当した初年度、塾内の課題として読書感想文を書かせたのですが、
見事にあらすじだらけの読書感想文モドキが大発生したのでした。
中学受験を考えている意識の高い子どもたちではありましたが、
まだまだ子ども。
口頭での指導とか、書いてほしいことをイメージさせるだけでは不十分でした。
そこで、翌年からは、ガッチリテンプレートを作り、
それを見ながら、書いてほしいことを示しました。
まぁ、それでも書けない子(テンプレートに従えなかった子)は一定数出るのですが、
ほとんどの子が「読書感想文モドキ」から脱していました。
教育とは「型にはめる」こと
日本の学校教育って、自分も含めてですが、
読書感想文の書き方を習った覚えがないんですよね。
感じること、思うことを表現するのに、型なんてありますか?
あったとして、それに当てはめて いったい何の教育的効果があるんですか?
もっと自由でいいじゃないですか。
いつの間にか出来上がった無名の権威(しかも架空の存在)が幅を利かせ、
いったんは「型」にはめる教育を施さなくなった結果、
自由というよりも、野放図な文章が大量発生することになりました。
書いた側も書かせた側も共に苦しみ、うんざりするので、
読書感想文=嫌な課題という負のスパイラルができあがったように思います。
ちなみに、教育の「教」という文字は、
ムチを持って強いる人の姿かたちから成り立っているとかいないとか。
「教える」というのは、型や枠など制限のあるものに、ガッチリ当てはめる、
はみ出たり、誤った方向に反れていきそうになっていれば、ムチでペシペシしたり、矯めたりすることなんですね。
「『講師』の『講』はしゃべることだから、教えたい内容を好き放題しゃべればいい。
生徒がどれだけ成長するかに責任を持つ必要はない。(実際はそうもいきませんが)
しかし、『教師』は違う。
生徒の成長度は、教師の努力やはたらきかけ次第でいかようにも変わる。
生涯、自己研鑽が必要な職業なのだ。」とおっしゃっていて、
当時は、「教師」はそれほど責任の重い仕事なのだ。と漠然と感じるにとどまったのですが、
数年後、漢字の「教」の成り立ちを知って、先生の言葉をなるほどなぁ。と思い出したことです。
子どもたちを自立した存在に育て上げるため、あえて厳しい立場に身を置く覚悟を持った人こそが、「教師」と名乗れるのかもしれません。
「量」から「型」の時代へ
ましてや、今後(2025年以降)の大学入試は、これまでの知識量を問うだけでなく、
思考力・判断力・表現力も問う問題形式になっていくとされています。
要するに、これからの時代を担う人たちは、
単なる記憶の器であることを求められてはいないのです。
(大量の知識を記憶するのは、数万円のコンピューターでもできることだからです)
器そのものを大きくしたり、中身を増やしたりする努力を怠らないのはいうまでもありませんが、
それ以上に 器の中身をいかに活用できるかが求められる時代となっていくのです。
器を大きくし、中身を増やせばなんとかなるだろう。という「量」重視の時代から、
知識をいかに活用していくかという「型」重視の時代に移り変わろうとしているようです。
社会の求めから、大学入試が変わり、
大学入試の求めによって、(学校)教育も変わる必要が出てきました。
教育に携わる人は、思考・判断・表現の「型」をどう教えるかについて
自分なりの方針を持つ必要がありそうですね。
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