「小さな失敗」から生じた「苦手意識」をそのままにすると、「〇〇」になる。(その4)

※ 意見には個人差があります。, 受験女子(仮題)ざんねんな受験女子

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こんなに、シリーズ化するとは思わなかった。
思いがけない展開に慌てふためくやら、読者の方々に申し訳ないやらである。

さて、前回の記事では、「呪い」と言われるものの例から、「呪い」の特徴を挙げてみた。
今回は、「呪い」をかける意味や理由を考えてみようと思う。

「呪い」にも効用がある。

自分で、自分に「呪い」をかけるというのは、不合理で、不利益極まりない行為だと思われる。しかし、「呪い」にかかったらかかったでいいこと(?)もあるのだ。

「呪い」は、自己防衛反応の一種。

はるか遠い記事のように思われるだろうし、自身も思うが、
私の「バックで駐車」のエピソードを思い出していただきたい。

私は、バックで駐車する経験を積まぬまま、「私にはバックで駐車は無理!」と言っていた。しかし、考えてみてほしい。
「私には無理!」というほど、何度も失敗したのか?

どんな免許だって、取りたては経験ゼロだ。一応技術習得はしたかもしれないが、まだまだ使い物にはならない。

その道の先輩たちは、「免許持っているんだから!」とか、
「新人とはいえプロなんだから。」とか、口ではいろいろ言う。
でも、その実、当分は使い物にならないと思って、
ちゃ~んと戦力から、外してくれているのだ。
それまできちんと回してきたんだから、新人にも頼らなければどうしようもない。という事態はそうそう起こらないだろう。

つまり、初心者のうちに、戦力としてカウントされないうちに、
たくさん失敗して、たくさん学べばいいのである。

こういうとき、素直すぎて先輩たちの言葉をうのみにしてしまうと、自分で自分の伸びしろを台無しにしてしまう。
「話半分に聞く」ということも時には必要なのである。

話を戻すが、
自分で自分に「呪い」をかけるのは、一種の自己防衛反応にあ
たる。自分ではどうすることもできない「呪い」に囚われているうちは、再び挑戦して失敗するみじめな自分を見ないで済む。
実は、自身のプライドを守るための行為なのである。

中学生・高校生に、運転の例でひっぱるのはしんどいだろうから、数学の例に変えてみる。

定期テストの「二次関数」で失敗した!

以下のケースで考えてみよう。

定期テストや模擬試験で「二次関数」の範囲が出題されたのだが、点数が思わしくなかった。その人は、そのまま「私は、数学が苦手なんだ!」と思い込むようになってしまった。

また、Yahoo!知恵袋の高校数学カテゴリでよくみられるのが、
「何度やっても覚えられない。」という声である。

「何度やっても」というが、さて、その回数はいったい何度なのか。
3、4回を「何度」に殿堂入りさせているなら、明らかに間違いである。

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Lukia

ドリカムの歌だったら、一万回ですよ?

考えてみてほしい。失敗したのは、定期試験や模試であり、入試ではない。また、失敗したのは、「二次関数」の範囲だけである。数学は「二次関数」だけが数学ではない。
それなのに、学年や学期の早い段階で、「数学は苦手」と一般化させてしまうのは、いかがなものか。

「苦手」という人のほとんどに不足している2つのもの

「苦手」という人のほとんどは、練習不足、失敗不足だ。
始めて間もないし、練習量(経験)も少ない。

また、練習量の不足は戦略の不足につながる。

よわっちぃ武器しか持ってないのに、ラスボスに向かっていってどうするよ。

まずは、ザコキャラを倒しながら経験と武器を身に着ける。
同時に脳内の軍師を養成して、それからラスボスと戦えばいいのである。

テストの点数は、リアルタイムの「理解度」だ。

テストの点数は、一喜一憂して終わりではもったいない。
リアルタイムの「理解度」ととらえれば、多角的な自己分析が行えるはずだ。

ほかの人と同じ時間が与えられ、同じ授業を受け、同じ課題をこなしたはずなのに、点数が思わしくなかった。というのは、
自分がほかの人より理解するのに時間がかかり、練習量や戦略が足りない。」ということを示しているだけだ。

まぁ、このことを反省せず、同じ勉強方法を続ければ、また似たような(場合によっては今回よりも低い)点数を取ってしまう。という恐ろしい予測も示されているが。

「負の一般化」

後で振り返れば、初心者にありがちな失敗をその人もしただけなのに、「ああ、私には数学のセンスがないんだ。。。」と拡大解釈してしまう。これまでは、「呪文」としてきたが、ちょっとこむずかしく、「負の一般化」とでも呼ぼう。
不特定多数の人を指して、「みんなが言ってるよ。」っていうアレだ。(実際に、「みんな」は存在しないが)

「負の一般化」は、自己防衛の一種だ。
中学校や高校の間は、本人もしんどい。「私は数学が苦手」と思っているのに、やらなくてはならないからだ。
しかし、「苦手」と言い続けることで、周りの人も、数学もだんだんとその人に踏み込めなくなる。
ついには、「私は
数学をやらなくてよい」というエクスキューズ(言い訳)になるのだ。

しんどいけれど、根気強く「負の一般化」していけば、数学を完全にシャットアウトされ、その人の自尊心は守られるのだ。
でも、その努力の方向、間違ってないか?

国文学科卒でしたけど。。。

私は、国文学科卒の元・再受験生だ。しかも、無謀(?)にも理転した。高校時代は、国立文系コースにいたので、再受験するまで数学Ⅲの分野をやったことがなかった。

高校時代、理系の同級生の男の子が、

 

知っとる? \(\sin \theta\) って、微分したら、 \(\cos \theta\) になるんで~。

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Lukia

ふ~ん。。。(知らねぇよ。ふんっ。)

同級生なのに、自分の知らないことがあるのが悔しかったんだろう。なんともかわいくない高校生だった。

しかし、再受験生になって、数学Ⅲを勉強したら、彼が言っていたことがわかった。
なるほど、sinθ を微分したら、 cosθ になるのである。

今の私なら、当時の彼と喜んで食い気味に話し込める。彼はひくだろうけどね。

再受験中は、(なんで現役時代、理系に行っとかなかったんだろう。)と過去の自分をうらめしく思ったこともあった。
やはり一人で数学Ⅲを勉強するのはつらい。
遠い昔でも習っていれば、その記憶をたどれそうなもんだが、それすらないわけだから一から開拓していかなければならないのである。

でも、今は思う。時間をかければ、たとえ数学Ⅲレベルでも独習は可能だし、高校数学レベルでセンスなんて必要ない
「私には、数学のセンスはない。(だから苦手だ)」と思うのは、ナンセンスなのである。

「数学」と「センス」を関連付けたいなら、大学に行ってからでもやればいい。

高校数学までで求められるのは、失敗をどれだけ克服しようと試行錯誤できたか。それだけだ。
何回目で理解できたか。とか、何回目に自力で解けるようになったかは問われていない。5回やって、5回目にその世界が見えたなら、それでいいのだ。

「見える限りのところまで進むのだ。
到着すればさらに遠くが見渡せる。」
トマス・カーライル
(19世紀イギリス(大英帝国)の歴史家・評論家)

この格言を読んだとき、プレーリードッグのことが頭に浮かんだ。プレーリードッグは、北米に住むリス科の生物である。巣の近くに見張り台を作り、そこに後ろ足で立ち上がって見張りをする。ここで、遠くを見渡す能力について、アフリカに住むキリンと比べてみた。いうまでもないが、キリンの方がまさっている。

たしかに、プレーリードッグは、キリンにはかなわない。どんなに背伸びをしても、見渡せるのはせいぜい数十メートル先だろう。キリンと同じ哺乳類だから。って、いっぺんで1キロ先を見るのは不可能なのだ。でも、見渡せたはしっこまで移動して、そこからまた見渡す。それを何度か繰り返せば、いつかはキリンの見た景色も見えるはずだ。

中学数学も高校数学も同じことがいえる。
初回から何の苦もなく解ける天才を求めているわけではない。天才を探しあてるために、数学を教えているわけではないのだ。

私は、学校で数学を教える意味は、別にあると思う。
大人になって、直接活用する機会はなくても、やったことはある。という人を増やしたいのだ。
知識を増やすことで、視野を広げ、さまざまな価値観を受け入れる寛容な人を育てるために教えているのだ。

大人になったとき、
「あ~、やったね~~!難しくて中身は覚えてないけど~」といえれば、それでいいのである。

その判断、早くないですか?

若いときは、何事もスピードが求められる。
現代の日本には、十代後半で人生の指針を決めてしまわねばならない風潮があるのもたしかだ。
だからこそ、小さな失敗を理由に「負の一般化」をして、自分の方向性を見定めている気質が身についているのだろうと思う。

しかし、それなりに長く生きている私から見ると、「負の一般化」をするまでの時間が短すぎるのは、人生において損をしているように思われる。

高校までの勉強は、練習量と自分なりの戦略を持てば、結構なんとかなるものである。この記事を読んでくれているとき、あなたがどの学年か、何月かはわからない。
しかし、たしかなのは、高校卒業するまでに「負の一般化」をするのは早すぎる。ということだ。
このブログを読みに来てくれる間ぐらいは、なんとかがんばってほしい。また、このブログがその一助となれば、幸いである。

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